Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

自転車に乗った旅人のこと

 友人Vの祖国は確かフランスであったように記憶している。確か、というのは、彼との縁はエディンバラの下宿が同じだったことで、ときおり交わすやりとりはもっぱら英語だったので、そういう曖昧な記憶になるのである。ちなみにフランス語の方はというと、大学初年度にひとしきり習いはしたものの、試験の済んだ後には一片のフレーズすら記憶に残らなかった。

 そんなVは今どこにいるのやら定かではない。最後に会ったときには一年ほど(あるいは半年だったか?)アメリカを巡るような話をしていたが、昨今の感染症騒ぎを脇に置くとしても、その一年はもう過ぎているように思う。良きにつけ悪しきにつけ、便りはどうとでも届けられる今日だが、いつでも誰にでも届けられるだけに、いつも誰とでも密で居続けるわけにもいかない。時間も体力も、また注意力も有限であることに変わりはない。

 

 Vは自転車が趣味の旅人だった。最近は日本でもubereatsが流行りらしいが、イギリスにはこれと同類のデリバル―というサービスがある。配達件数による出来高制なので、地域の特性というか、町の規模や住民の構成などが稼ぎに大きく影響する。エディンバラは大きい都市で住民も多く、仕事の数は多かったろうが、一件当たりの配達にかかる時間も長くなりがちだったのではないかと思う。そもそもが自転車乗りである彼にとっては悪い仕事ではないが、稼ぎはまあほどほど…というようなことを聞いた覚えが、かすかにある。

 しばらくしてVはセント・アンドリューズへ引っ越した。もうしばらくしてから、遊びに来いというお誘いを貰って、私はいそいそと電車に乗って出かけた。小さいが由緒ある海辺の町で、Vの住んでいる家は小さいがすっきりした、気持ちの良いところだった。コンパクトにまとまった町の見所を、写真を撮りながら巡るうち、ここは配達の仕事がしやすいと彼は話した。話を聞いて初めて知ったが、セント・アンドリューズは家賃がとても高いのだ。古くからの名門であるここの大学に通う学生を別にすれば、懐に余裕のある人が多いのだろう。そして何より、町が狭い。スコットランドの都であるエディンバラと比べて、配達の効率が段違いに良い――。

 そんなわけで、高い家賃にも関わらず、趣味を活かした十分な稼ぎと自由な生活を楽しんでいるのだとVは語った。時給で計算するとこれくらい、と具体的な金額も聞いたけれど、忘れてしまった。一般的な飲食店のパートと比べても随分高く、面食らった印象だけは残っている。「大学で勉強して、わざわざ資格を取ったカウンセラーの仕事は、ほとんど最低賃金だった。えらい違いだ」そう言った少し皮肉気な様子に、私も苦笑いを返した。なんとなく、彼の言いたいことがわかるような気がした。

 羽振りの良くなったVはコーヒー代を奢ってくれて、私たちは彼の借家に戻った。もうしばらくここにいるから、また遊びに来ればいい。その後は、アメリカに行く。何ヶ月かかけてゆっくり巡るつもりだ。いつか日本にも行くかも、なんて彼が付け加えたような気もするけれど、私の記憶はあてにならない。

 

 喋りながら坂道を下る彼の背中を見て、私は不思議な感慨におそわれた。軽い。本当に風のようだ。とても羨ましいけれど、きっと自分は、こんな風にはなれない。

 

 最低限の荷物だけを背負って、自転車に乗って、気に入った場所に気が済むまで住んで。日本のひとからすれば随分と奔放な生活に聞こえるかもしれないが、ヨーロッパの若者としてはそんなに珍しいことでもない。そういう暮らし方をするだけなら、ちょっと工夫すれば私にもできないことはない。

 でも、あんな背中には、たぶん私はなれないのだ。