Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

風景を切り取る

 旅行に行くと、写真を撮ることがある。撮ることがある、というのは、撮らないときもあるということだ。
 風景の中に立つ瞬間が好きだ。風が肌に触れ、視界いっぱいがその場所で、人々のざわめきがあってもなくても、その空気の密度と肌触りが何よりも鮮やかにいまここにいることを私に感じさせてくれる。
 
 写真の中には、必ずしもそれは残らない。
 どこを歩いても、私たちの身体はいつも複数の感覚を同時に受け取ることでその場所の雰囲気を感じ取っている。
 いまここに立つことで身に迫ってくる広がりに比べれば、視覚だけ、一面だけを切り取る写真ではどうしても足りないと感じてしまう。
 何より、時間の広がりがない。新しい場所で、住み慣れた街で、一人で立ち止まった瞬間にふと訪れる、あの淡くて強烈な空白の手応え。今までとこれからが吹き抜けのようにすとんと繋がるあの瞬間に、たった一人それを眺める存在として立つとき、私という実感は必要最小限の大きさまで薄まって、ただ出入りする空気を通してやるだけの通路になる。
 
 そこでふいと気が向くままカメラを取り出し、綺麗に見える角度を探して記録を残すこともある。それはもう、いましがたここで起こった出来事とは関係のない、ただの旅の思い出だ。
 無論あとから見返せば、ああこんなところにも行ったっけと、思いがけない記憶を呼び起こしてくれもする。
 けれどそれとこれとは、もう別の話。
 部屋で写真を眺める私は、椅子に腰かけたこの「私」のまま。風景の一部を担っていた、時間に取り残された私ではない。
 
 写真の上手な人は、また違った何かをそこから取り出すこともできるのだろう。どんな技の世界でも、興味を深くして取り組めば応えてくれることを知ってはいる。
 今のところ、まだ私には縁がなさそうだ。