Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

意志と空想と

一応下書きを書いて保存してはあったのですが、それにしても間が空いてしまいました。1月経っています。続きです。
 

先日の(もはや先月ですが)整体で順番待ちをしている間、置いてあった本をパラパラとめくっていました。整体協会の創設者である野口晴哉のエッセイ集でした。
その中に、道場で開催した七夕の会での参加者の「願いごと」に絡めて、人間の意志と空想のはたらきの違いについて述べたものがありました。本が手元にないので、少しうろ覚えですが、大体以下のような内容です。
 
人前で緊張してしまって顔が赤くなったとき、「赤くなるまい」と意志でどう頑張ったところで仕方がない。逆に何でもないときに「顔を赤くしよう」といくら気張ってみたところでできるものではないが、その代わりに過去の恥ずかしい出来事を思い出せば、自然と顔は赤くなる。「こうしよう」という意志の努力は自律的な身体のはたらきに対してほとんど無力だが、つい空想したり連想したりすることには、実際に人の身体をそのように動かしていくはたらきがある。
願いごとにも実は似たようなところがあり、あまり具体的に「こうしよう」という欲を持ってもなかなか叶わないが、自分の求めている方向性を上手な距離感で思い浮かべることができれば、案外本当にそのような方向に向かっていけるものである。
 
あとの段落については私の体感的な理解が追いついていないので、少しあやふやなまとめ方になってしまいましたが、前半については、日常で思い当たる節もあるのではないでしょうか。
野口先生の本を読んだことがある方なら、この話はどこかでは目にしている「定番」だとは思います。私も毎度「なるほど、確かに」と思いながら読んでいるので、特に目新しい内容ではありませんでした。ただ、なぜかこの日は読み慣れた話がどこか新鮮な驚きを伴って見えました。強いて表現するなら「そうか。今まで自分は、この内容を本気で理解しようと取り組んだことはなかったんだ」と、はたと気付いたような感覚です。それから2週間ほど、いつも頭のどこかにこのことが引っかかっています。
 
何でもない暇なときには眠たくなるのに、ちょっとした空き時間に「今日はこれから長丁場になるから、今のうちに少し寝ておこう」などと思ってもそう都合よくは眠れない、などの経験がある人もいるでしょう。私などは寝ない方がいいときには四六時中眠くなりますが、いざ「寝よう」と心に決めてしまうと頭の中であれこれと考え事が始まって、まず眠れなくなります。
これなどは、下手に「こうしよう」という意志を持ってしまうと、かえってその行為に対して気負いが生じるとでも言えばいいでしょうか。何の気なしに流れに沿って行えばすらすらといくことが、やる前から余分に意識しすぎると余計な力みを生んでしまいます。私は趣味でそこそこ長いこと武術をやっていますが、動く前に「ここに気を付けて、このように動こう」ということを思えば思うほど、かえって身体が固まったりぎこちない動きになってしまう経験はたくさんあります。
このように意志が身体の自律的な働きにはあまり上手に影響を与えられない、むしろブレーキになってしまうことすらある、ということはすぐに納得ができました。では上で言及されている空想・連想が体をリードしていく、とはどのようなことでしょう。私は武術や運動全般について考えるのが好きなので、これを具体的な動きのコツというか、原理として理解できないものだろうかと思いました。

以下、続くかどうか怪しいですが、一旦切ります。