Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

文字と手の記憶

 先週から語学学校に通っています。昨日はふと思い立って、10年以上ぶりにアルファベットの練習などをしていました。実は以前から、「こなれたアルファベット」が書けるようになりたいなあ、とは思っていたのです。
 そんな折にここ数日で何度か、語学学校の友人や近所のお店の人などから手書きのメモを渡される機会があったので、ひとつその文字を真似て練習でもしてみようか、と思い立ったのでした。
 
 どんな文字でもそうですが、何年も日常的に書き続けていれば、当然その人なりの好みや癖が反映されてきます。手書きの文字はそれなりに崩したりデフォルメしたりするわけですが、その仕方に個人差がある中にも、国や文化圏などもう少し大きな枠組みでの崩し方の法則のようなものもあるでしょう。
 個人個人の書き方に違いはあれど、やはり同じ言葉を話す人同士で理解できる程度には共通のスタイルに収まっていなければ、意味が通じません。
 何が言いたいかといえば、私たちが自然と行う「漢字的」な発想の崩し字と、ヨーロッパでアルファベットを使っている人たちの「アルファベット的」発想の崩し方は、随分違っているようだということです。
 
 たとえば漢字をいかに簡略化して書いても、「上から下」の線をあえて「下から上」に書くことはまずないかと思います。アルファベット的感覚では、特に気にしないようです。
 また漢字でもひらがなでも、文字と文字の境界は比較的はっきりしていますし、簡略化して書く場合でもひとつの文字をどう崩して書くか、という発想が主であるように思います。ですがアルファベットの一文字はシンプルですから、むしろそれらがどのような流れの中で繋がるか、という方向性で見ていかなければ、なかなか解読できないときもあります。とくに筆記体のような書き文字であれば、どの部分が文字の「本体」でどこが「つなぎの線」でしかないのか、が一見しただけでは分かりづらいのです。
 
 ひとつずつ手を動かしてトレースしていくと、ひとつながりの流れで文字を綴る感覚や、その動きの中にある独特のリズム感が存在するであろうことなどが、少し感じられてきました。とくにクラスメイトであるドイツ人婦人の筆記体よりの流麗な筆致は、そう真似ができるものでもありません。
 彼女たちヨーロッパの人々が長年の生活の中で培ってきたであろう図形感覚、ペン先のリズム感、流れを止めず綴る速度感。それらを持たない私がぎこちないアルファベットを綴るのを目にしたら、こちらの人たちはどのように感じるでしょう。
 きっとそれは私たちが慣れない箸に四苦八苦する人を見るときのように、みずからが無自覚に身に付けてきた膨大な蓄積への新鮮な驚きをも含んだ、文化というもののリアルな肌触りでもあるのではないでしょうか。