Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

日々の暮らしのように書くということ

 小さい頃から物語が好きだった。小説、映画、マンガ、アニメ、ゲーム、音楽。媒体は何でもいい。それらを目にして、耳にして、自分もそこで描かれている風景の一部になりたいと、いつも感じる。どうにかして「そこ」に近付きたくて、絵や文章や曲を創ってみようと試みたことだって、一度や二度ではない。
 ただ、それはどうしてもできなかった。雰囲気、肌触り、空気に色がついているかのような「場」の質感。そういったものはいつも痛切なほどに感じているのに、それを少しでも具体的な言葉やものごとに置き換えようとすると途端に雲散霧消して、さっきまで私が何を感じていたのかさえ、わからなくなってしまう。
 まるでおとぎ話に登場する妖精のよう、と言えば情趣が過ぎるだろうか。見ようとしないときにだけそれは見え、光を当てつまびらかにしようなどという不粋を思い立てば、たちまち頭の中の記憶ごとかき消えてしまうようだ。
 
 こんな具合だから、小中学での感想文というものは嫌いだった。
 何も感じないわけではない。ただ私にとってその大部分はどちらかと言えば「感情の手触り」とでも言えばいいのか、半ば触覚的な印象としてやってくるもので、言葉や思考といった具体的な形を伴ってはいない。
 それに自分が感じた生な感触を、誰にでも見えるようなところに無防備に置いておくのも、とんでもない話だった。
 おそらくその防衛本能もあってのことだろう。いざ原稿用紙を前に、もしくは口頭で「どうだった?」などと聞かれようものなら、頭の中はたちまち真っ白な真空状態になって、使い古しのWindows2000みたいにフリーズを起こすのだ(油断をしていると今でもまれに、そうなることがある)。
 
 
 数年前に、坂口恭平さんという人の存在を知った。ツイッターをフォローしていると時折、堰を切ったように言葉が流れてくる。「作品をつくれ」と彼は言っていた。それは鬱で死にたい人たちに向けたメッセージだった。何でもいいから、他人の評価もどうでもいいから、自分が死なないために作品をつくれ。死にたいなどと夢にも思ったことのない私にも、なぜかそれはとてもほんとうの言葉であるように響いた。作品をつくれ。
 
 ただ私にはひとつ問題がある。伝えたいことなんて、ないのだ。表現したいことも特にない。いや、むしろ目の前に他者の存在を感じると、私はそれらを隠したくすらなる。
 
 ごく正直なことを言えば、私は自分以外のいきものが存在する場所で、本の一冊だって読みたくはない。何かに集中して取り組む姿を見られることは、まるで居間のベランダのガラス戸と玄関を全開にしたまま家を留守にするのにも似た、恐ろしさがある。
 そんな私からすれば、何かを伝えたくてガマンできずに作品を作り始めてしまう人なんていうのは、ほとんど背中に翼の生えた鳥人族かエラ呼吸のできる海底人かと思えるほどに、理解のしがたい存在だった。今でも半分くらいはそうだ。
 
 ただ今こうして曲がりなりにも言葉を連ねているのは、それが必ずしも他者に向けたものであるとは限らない、と気が付いたからでもある。言葉というものは、もしくは画でも歌でもいいのだけれど、見えかけてまだ掴み切れない「その光景」を、他ならぬ私に向かって伝えようとする行いの軌跡なのではないだろうか、と。
 それはただの轍であり、完成した作品もただの過ぎ去った風である。そこに出来上がったものが目的なのではなく、伝えたいわけでもない。たとえて言えばその瞬間、そこにある運動が作品なのだ。行為に意味を見出してもいいが、行為に意味があるわけではない。
 

 そういえば音楽は好きだが、演奏するよりも踊る方が好きかもしれない。数年前にケーリーceiliと呼ばれるアイルランドやスコットランドのダンスパーティーを知ってから、すっかり気に入ってしまった。
 パーティーでの踊りだから、誰かに見せるためのものではない。終わった後に何が残るわけでもない。では何のためにするのか?その瞬間を、愉しむためである。
 その潔さがとても好きだ。意味や目的から解放され、いまこの瞬間を全身で味わうことに力を注ぐ。
 
 もしかして形の残る作品を作るときでも、同じなのではないか?ちょうど今年の3月、東京での大きなケーリーに参加した後で、そんなことに気が付いたのだった。