Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

2.手探りの稽古

 どうやれば出来るかわからないものを、ああでもないこうでもないと工夫するのは楽しいものだ。もちろん、そこには自発的な興味にもとづく探求であるという条件が付く。たとえどんなに好きなことであっても、強制されたり押し付けがましさを感じた途端に嫌気が差すというのも、人間のおもしろいところである。
 私はそれまで、歩くという動作は誰がやっても同じ「歩く」だと思っていた。歩き方に文化による違いや、上手や下手があるなど考えてみたこともなかった。
 空手の突きも、蹴りも、肘も、フォームが身に付いたらあとは皆同じ。その誰がやっても同じ動作を、どう組み合わせるかが技だと思っていた。
 古い武術の世界と出会って、私の世界が変わった。
 歩き方が違う。「立ち方」まである。ただ手を挙げるだけの動作に、無限と言えるほどの質の違いがある。
 技とは、ただのパターンの組み合わせのことではなかった。数年前から教えを受けている古流空手の師が、こんなことを言っていた。
「ただのビンタひとつ張っても、それが技になるのが武術です」
 
 歩き方が変わったと本当に実感できるようになるには、半年から一年くらいの時間が必要だった。平らな道、階段の上り下り、坂道、ぬかるみ……どんな道を歩いても、自分の動きを観察し工夫するのは楽しかった。今でも、たとえば雪が降ったときなどは色々と試みながら歩く。
 毎日の生活でものを持ち上げたり運んだりするのも稽古だ。今まで自分はどうやっていたのか?を自覚するのと同時に、どうやれば体に負担を掛けず、なおかつより大きな力が出せるのかを工夫する。
 工夫といっても、ゼロから方法を作り出すのはなかなか難しい。私も色々な書籍や動画などで仕入れた情報をひとつひとつ実験してみるような心持ちで試みたわけだが、体の使い方というジャンルの良い点は、実際に出来るかどうかがかなりはっきりした形で見えるところだ。
 武術でも日常動作でも、感覚的に腑に落ちているならばそのように動けるはずであり、そこではじめて理解したということになる。逆にいくら言葉で筋道立てて説明ができたとしても、その理論が自らの身体感覚・動作と本当に合致しているのでなければ、それをわかっているとは言えないわけだ。
 
 当時私の主な稽古の場は地元の空手教室だった。一般に空手で練習する技術といえば、突き蹴りなどの打撃がメインだ。私たちの道場でも、投げ技や受け身などをまったくしないわけでもなかったが、基本的には打撃の攻防を念頭に置いた稽古がほとんどだった。
そして練習の成果を試みる場といえば打撃のやりとりを主とした組手(防具を付けたいわゆるライトコンタクトで行うことが多かった)であり、一番の楽しみでもあった。
 対して、私が新たに興味を持ち取り組み始めた技はほとんどが組み技だった。それも直接的な投げというよりは、掴まれたり押し合いになって踏ん張る相手を崩すというものだ。
もちろん実際の闘争の場面においては、こちらの片腕を両手で掴み全力で止めに来る相手、という状況は考えにくい。だからこのような技を工夫する目的は、相手の体を崩せるか、というわかりやすい目標を設定しておくことで、より効果的な体の使い方を検討するという意味合いが強い。
 このような動きを練習する上でもっとも大きな障害のひとつは、つい余分に押しすぎて必要な力の流れを止めてしまう自分の力みである。初心者だけでなくどのようなレベルの人にも言えることだが、これで相手に効くだろうかという不安があると、つい技としては余計なひと押しをしてしまい、その筋肉の緊張が意図とは逆にブレーキとしてはたらいてしまう。
 だからいかに余計なことをしないか、この瞬間に集中して必要な動きだけをできるかがポイントとなるのだが、これはなかなか難しい。なぜなら私たちが日常的に身に付けてきた身体感覚では、できるだけしっかりと支えを作って手応えを感じながら動く方が強いだろうと反射的に感じてしまうからだ。
 毎日歩き方を工夫し、道場では空き時間に同級生や先輩・後輩を捕まえては上記のような技のかけ方をあれこれと試みる中で、私の感覚は徐々に変わっていった。
そしてそれらが少しずつではあるができるようになってくると同時に私が考えていたことは、これを組手に代表される瞬間的な対応やペースの速い打撃技にどう生かしていくか、ということだった。