Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

3.ものさしそのものが変わるということ

 新しく練習し始めた体の使い方は、それまでしっかりした良い動きの条件だと思っていた要素を、むしろ次々に否定していくものだった。腰や肩を回すなどして反動を付けることで勢いを得、接触する瞬間に筋肉に力を入れて相手にぶつける。
 そんな当たり前に良しとしていた動き方では、掴まれた腕をぴくりとも動かせない。その代わりに力を入れず、重力に従い、相手を押さずに、姿勢を保ったままいきなり落下できたときにだけ、まるで電気のスイッチでも入れたかのように結果が表れる。
 このような強烈な現実を突きつけられれば、嫌でも色々なことを考えざるを得ない。いや、もちろん私は嬉々として新しい世界に飛び込んだ。
 踏ん張る相手を崩すほどのエネルギーは、脚さばきから生まれている。ならばそのステップは、相手と距離のある組手でも使えるだろうか。
 掴まれた腕を通じて、相手に全体重を浴びせかけることができるのはわかった。そうしたらその方法は、一瞬の接触でしかない、パンチでも使えるのだろうか?
倒れることでエネルギーが生まれるのであれば、蹴る時はむしろ、軸足の支えを不安定にすればよいではないか。もともと一本足で不安定だった分、突きよりも簡単なのではないか?
 組み技や剣術に比べると当時それほどヒントが得られなかった打撃への応用だったが、だからこそ私は毎日様々なことを考え、身体の感覚を探り、週に一回しかない稽古では時間いっぱいまで使って色々な動きを試した。
 そのためには自然と、それまでは考えたこともなかった根本的なものの観方についても、自分の足場を解体するようにして検討するようになった。
 力の強さとは何か。武術における速度とは何なのか。それは人間が他者の動きに反応する仕組みと、どう関わっているのか。手応えを感じることと実際の技の効きには、なぜずれがあるのか。姿勢は動き方とどう連動しているのか。そしてそもそも、どのようになるのが上達なのか?
 
 このようなことを大雑把にまとめれば運動観、つまり私たちの運動とはどのようなものか、という総合的な価値観の変化と言うことができる。そこからさらに踏み込んだ話として身体観の変化もあるのだが、それはもう少し込み入った話になるので、今は触れない。
 これはそれまで知らなかったタイプの技をいくつか覚えた、ということとはレベルの違う変化だった。だいたいが、そのときまでなんとなく良い動きの条件だと思っていた要素をほとんど否定してしまっているのである。
足を踏ん張ってタメを作り、腰を回してしっかり勢いをつけて動くと、かえって力が「伝わらない」というのだから、これは大変なことだ。
 ただ一度そうなってみるとおもしろいことに気が付いた。それまでの常識とは違うとはいうものの、では、かくいう私はそれまでの「こうすれば良い動きになる」という常識的な運動観をどのくらい信じていたのだろうか。
 答えは簡単。考えたこともなかった、である。
 それもある意味当然のことで、どういう動き方が力強い動きであり、最大のパフォーマンスを出そうとするときに(たとえば、重いものを持ち上げるとき)人はどういう動き方をするものか。または良い姿勢とはどのようなもので、見る人にどのような印象を与えるのが美しい動きなのか……といったことは、幼いころからの体験と周囲のものの観方を通じてなんとなく身に付けるもので、いちいちその根拠を問うてみたりはしないのが普通だろう。
 それはちょうど母国語を身に付けるのに似ていて、とくにそれと意識することもなく学び、いつしか私たちはその視点を前提にものごとを観るようになる。
 この視点は大まかに言えば社会的に共有された価値観でもあり、私たちのものの観方のかなり根本的な部分を担っているので、信じるとか信じないとかを論じる対象にはならないのだ。
 ある考え方を「信じる」というためにはそれに対抗する別の考え方がある、という認識が前提になる。ところが、異なる運動観にもとづく武術の技を実際に使いこなす人物を目にするまで、私はそのような動きに対する考え方があることすら知らなかった。比較する対象がないのだから、それが「たくさんあるうちの一つ」である可能性など、思い至るはずもない。
 あまりに当たり前すぎるものの観方は、もはやそれが特定の視点による世界の捉え方であることに気付くことすら難しく、ただ素朴な事実そのものにしか見えない。
 古い武術の世界に出会ったことでもっとも大きく私を揺るがしたのは、間違いなくこのことへの自覚だった。私がただの事実だと思いこんでろくに目を向けたこともなかった「良い動き」の条件や法則は、実は私の所属する時代・文化に特有の「考え方」でしかなかったのだった。