Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

4.社会の外にある世界

 私は大学では動物学を専攻していた。本気でその道に進んだ友人たちと比べれば遊びのようなものではあったが、卒業研究では野猿公苑のニホンザルを対象に観察を行った。
 動物の群れには当然彼らなりのルールがあり、個体同士の間には親族や順位、仲の良し悪しなどの社会的な関係がある。
私が観察していたニホンザルたちにとって社会的な立ち位置や関係性は、日々のえさの量の多寡や繁殖の成功率などに直結する、非常に大切なことであったのは間違いない。日中かなり密度の高くなる彼らのえさ場において小競り合いやけんかが起きると、順位や味方をしてくれる親族の繋がりなどによる力関係が色々と見て取れた。
しかし、餌付けされていたとはいえ原則的には野生の群れである。彼らにとって直ちに生命にすら直結する問題といえばまずは食料と安全の確保であり、群れの中での地位ではない。生きるために最優先で対応すべき相手は常に外の環境そのものであり、同種他個体を始めとする群れ社会の内側の出来事ではないのである。
群れの中で小競り合いがいくらあるといっても、ケガをするほど本気で戦っているところは、私は見たことがなかったので、割合としては少ないのだろう。
ひとつ印象深い出来事がある。
あるとき、山の下の方から猿たちを警戒させる何かがやってきたらしく、群れが急に騒がしくなった。
公苑の職員さんに聞くと野良犬か何かではないかと言う。しかし姿は見えない。猿たちも、山の下の方にいる仲間の声を聞いて警戒心を強めているだけのようではあった。
結局、その何かの姿を私は見ていない。とくに猿たちとの間で争いになることもなかったようなのだが、そのときの彼らの警戒の様子はいつもの仲間内でのけんかとはまるで違ったものだった。
群れの中での小競り合いは、ときにかなり激しいものに発展することもあったが、命を懸けた殺し合いとは根本的に性質が違う。だから生き物が本気で戦う時に発する、細い綱の上を渡るような緊張感を伴った静けさはない。もっと開けっぴろげにただ激しいだけだ。
しかしこのときは違った。なるほど群れは警戒の声やらで騒がしくはあったが、その中にも内側から圧力が高まってくるような静けさがあった。ちょうど私の目の前にいた個体は骨盤がぐっと持ち上がり、いつでも飛び出せるような姿勢で向こうの様子を眺めていた。この姿勢も、いくらけたたましい叫び声を上げようとも、内輪のけんかではついぞ見せたことのないものだった。
社会の外からやってくる脅威に対応するとはこういうことなのだ。自分たちの内輪であれば暗黙の内に適用されるルールが通用しないとき、人も動物も、一個の生命としての全力で向き合うしかなくなる。
 
人間社会ではどうだろうか。
生命に関わるほど深刻ではないというだけで、「社会の外側」じたいは私たちの日常にだって溢れている。
たとえば料理をするとしても、焼き過ぎれば肉は焦げるしじゃがいもの芽を調理すれば有毒である。食材は私たちの社会的な規範や都合をいちいち考慮してはくれないし、私たちの側で「肉は焦げてはならないものとする」といったルールを定めるわけにもいかない。
だから細かなことを言えば、私たちは日々いくらでも「社会のルールが通用しない外の世界」に直面しながら生活している。
ただこの話が複雑なのは、私たちは「塩はこの分量に何グラム」とか「生肉を切った包丁は消毒すること」といった知識や規則(どちらも、私たちの頭の中にあるものである)を人間の行為の方に適用することで、疑似的にものごとを社会の内側に引き入れることもできる点だ。
この場合、そのような方法論を他者から学んだ人間は、調味料の加減を間違えればどんな味になるとか、生肉を調理した包丁で切った果物を食べればどのような目に合うかとかを経験として分かっていなくとも済む。そしてその知識の蓄積が及ぶ領域までは、ものごとを人為的な規則の世界と同じように扱うことが可能になる。
だから技芸にしろものづくりにしろ、歴史を経て知識やマニュアルの蓄積がなされてくると、良くも悪くもその始まりにはあったであろう、人間の作ったルールが通用しない生のできごとそのものと向き合う感覚は薄れてくる。
こちらの都合が一切通用しない外の世界と向き合う代わりに、先人の積み上げた知識や手順と向き合うことで、いわば社会の内側にいるままにして種々のできごとと対峙できるのである。現代の、少なくとも私が経験した範囲の学校とはその最たる場であるように思う。