Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

7.学校の勉強

私の大学受験には長い時間がかかった。
普通なら目当ての大学に合格すれば終わりと言えるのだろうが、私が受験生のときに頭を悩ませた問題は、どう考えても個人の生き生きとした学びを邪魔しているとしか思えない受験システムと、それを否定しながらもきっぱりと降りてしまうこともできないことへの罪悪感との間での板挟みだった。
割り切れない思いは大学入学後も続き、結局本当に受験が終わった、という感覚が胸に迫ってきたのは大学生活も終わりに近付いた冬、卒業研究の発表を終えてアパートに戻る途中、もう真っ暗になった大学構内でのことだった。
 
学ぶとはどういうことか、を考えるようになったのは、学校の試験で高得点を取るのに努力を要するようになってからのことだった。
いや、武術に出会ってすべての価値判断がいかに相対的なものなのか実感を得るまでは、勉強は頑張ってやるのが「ほんとう」であり、自分もいつかそうなった方が良いのだと、漠然と思い込んでいるだけだった。
自分が無意識のうちにどのような価値観を基準にものごとの良し悪しを判断しているのか、その価値基準そのものを振り返って自覚し、相対化するという方法を知るまでは、なんとなく良いことは良いことであり悪いことは悪いのだと、特に根拠もなくただそんなものだと思っていたのである。
 
人の話を聞くのは好きだ。自分の知らないことや、今まで興味を持ったこともない領域、もしくは個別になら知っていた出来事が、それまで考えたことのなかった方法で結びつく。新しい知識もそうだが、何よりもその答えが出るに至った経験やエピソード、背景にある考え方を知るのは楽しい。
だから、学校で授業を受けるのは嫌いではなかった。もちろん教師個人によって話の上手い下手はあるものの、新しいものを教わることそのものは、いつもそれなりに楽しめた。
今から振り返れば、問題を解いたり試験を受けたりするのはそれほど好きではなかったのだと思う。ただなにぶん中学を出るまでは試験であまり苦労をしたことがなかったものだから、それが本質的に楽しいことなのかどうかとか、好きか嫌いかなどとあまり深く考えたこともなかったのだ。
おもしろいもので、学校の試験のようにはっきりとしたスコアが表示されるゲームであれば、高得点が取れるうちは楽しい。それは競技やゲームにおいて高い得点が取れランキング上位に食い込むことができるということの楽しさであって、その中身である勉強そのものがおもしろいかどうかとはさほど関係がない。
高校に上がっても、状況はあまり大きくは変わらなかった。確か初めて受けた定期考査での学年順位が、320人中50とか70とかだったろうか。さすがに中学のときのようにはいかないものの、さほど順位にこだわりがあったわけでもない私は、まあそんなものかとマイペースに過ごした。
幸運なことに学校生活は毎日楽しく、私は特に不満も不自由もなく日々を過ごすことができた。家族、友人、先生方に恵まれ……というのは、私にとっては当たり前の日常でしかなかったが、本当はとても得がたいことであるのだと思う。
その反面、毎日を気楽に過ごせてしまったがために、多少の引っかかりや不満があってもそれらについて改めて向き合ったり検討したりといった気持ちにはならなかった面もある。後になって思い返せば、学校の仕組みについてや勉強について、それから人間の性質についてなど、子供の頃から色々と引っかかっていることはないではなかった。
高校に入ってからは一夜漬けで軽く高得点を取るのが難しくなった。二年生くらいからは、うっかりすると教科によっては落第点を取りかねない、という場面も出てきた。そのときに私が考えたのは「それなら、もう少し念入りに勉強しなきゃな」といった程度のことだった。
授業を受けるのはそれなりに楽しかったのだから自分は勉強が好きなのだと思っていたし、とくに疑問に思う要素はない。
ただ今から考えれば、当時の私は「いち個人としてものを学び、認識を深めていくこと」と「学校のカリキュラムに沿って勉強し、試験などを通じて良い評価を目指すこと」の区別など考えたこともなかったし、学校で必要とされていた後者に尽力することは当たり前に良いことなのだという前提を、なんとなく信じていた。
試験前の勉強に労力を要するようになれば、当然それまでは感じなかった心理的抵抗も感じるようになる。もしそこで「とにかく頑張って良い成績を取るのは良いこと」という考え方であれば、その気持ちを無視するか抑えるか、自分を誤魔化すかして終わりだろう。
しかしこのとき私はちょうど毎日体の使い方をあれこれと試し、暇さえあれば武術について考える中で色々なことを学んでいた。まずはそこにある事実から考え始めること。自身が納得できるかどうか(だけ)を判断の基準にすること。他ならぬ私の感覚を、まずは観察すること。
だからそれまで決して考えたことのなかった、次のような疑問をもつことができた。
「嫌だと思う気持ちも正しいのではないか」「好きなはずの勉強が楽しくないのなら、やり方が何か間違っているのではないか」「楽しくないという気持ちを無視して、努力するのが良いことだからするという考え方は、むしろ思考の放棄であり、学問を自分の問題として真剣に向き合っているとは言えないのではないか」