Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

8.本気で探れば楽しいのが当たり前

歩き方を変えることに取り組み始めた高校二年の夏から、私はみずからの動きが日々変わっていくおもしろさに夢中であり、日常のどんな動きからでもヒントを得るため、いつも身体の感覚を探ろうと試みていた。このような心理状態のときに、嫌だけれど上達のために我慢する練習など存在しない。ただおもしろい稽古か、大変だけれど取り組み甲斐のある稽古、もしくは本当にただ嫌なこと、つまり体や心に無理な負担がかかるような行為が存在するだけだ。
最後のひとつについては、避けられるなら避けてしまうのが正解である。自分が稽古でそのような無理な動きをしていると気が付いたなら、それをきっぱり止めることもひとつの進歩だと言える。
武術の稽古は違和感に気付く稽古だ。先に力みや踏ん張りは自分本来の動きを発揮する邪魔になると述べた。筋肉の緊張と心理的な変化は常に分かちがたく結びついていて、どちらが先と決めることは難しいものの、いつでも互いに深く影響し合っている。
だから筋肉の緊張を観察し、力んで相手と押し合っている自分に気が付いたとき、それをいかに止めることができるかを工夫すると次の段階への糸口になることが多い。
隙あらばどこからでもアイデアを得てやろうと興味津々で取り組んでいるとき、難しい課題は解き甲斐のあるパズルであり、辛さを感じる動作はそこに何か無理があるというサイン、つまりまだ改善の余地があるというヒントでしかない。
こういった状態を経験できたことは私にとって本当に大きな変化だった。
 
 私は幼い頃から動物が好きだった。植物もおもしろいと思うようになったのは高校生の頃だ。
 どちらかと言えば都会で育ったせいか、近くに緑や動物たちがいるだけで心地よく、それらについて学ぶことを生業にできれば楽しく毎日を過ごせるだろうと漠然と考えていた。
 だから大学では理学部を選んだ。動物学について詳しかったわけではないが、どうやらフィールドワーク研究の良き伝統があるらしいということで、行く大学を決めた。
 将来本職にしようというのだから、学問との向き合い方についていい加減で済ませるわけにもいかない。こればかりは少々大変でも、心から納得のいくスタンスをみつけておくべきだと考えた。
 違和感があるのなら、そこには無理がある証拠。自分にとってより適切な方法を探るチャンスだ。
 私にとって、差し当たっておもしろくないのは試験だった。別に試験のために勉強するわけではないはずなのだが、高校生にとって試験は実際の生活上の大きな区切りであり、どうしても影響を受けないというわけにはいかない。ましてや、大学受験ともなればなおさらである。
 また試験には決められた範囲があるので、何をどの程度勉強するかは、それによってかなり左右されてしまう。たとえば学校で教わったことについて、試験に出ないくらい詳細な知識をおもしろがって学んでみても、それは成績評価とは関係しない。大学入試という大きな試験の枠で考えれば、そこにはどうしても奇妙なねじれが生まれる。
 大学を目指すのは、勉強がしたいからだ。少なくとも私にとってはそうだった。それは個人的な興味のためであり、そのための手段として試験に合格する必要がある。しかしその手段のためには、いちど(一年間から場合によっては数年!)自分の興味は脇において、決められたことを決められたやり方で身に付けなければならない。
 それはシステム上仕方のないことではある。要はそのような矛盾も勘定に入れた上で、それでも大学という場を利用して学べることのメリットが上回るならば、多少のことに目をつぶる価値はあるということだ。