Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

9.社会の外側を忘れたシステム

 ただ結局のところ、そのような話はすべて外側の環境の問題でしかない。私にとって重要なのは、私が何を感じどのように学べるか、という一点しかないことも事実だった。私にコントロールでき得るのは、自身の側の振る舞いでしかないのだ。
 だから私は、大学受験における目標を次のように決めた。生物学をはじめとしたおもしろそうな本にできるだけ当たり、せっかく目の前にある授業も素直に楽しんで、自分なりに気持ちの良い勉強の仕方をみつけること。そしてその結果として、試験にも対応できるようになろう、と。
 
 言うのは簡単だが、これはなかなか容易なことではない。というよりも、こうして後から振り返ると、根本的に順番が間違っていることに気が付く。
 どうしようもなく興味を惹かれ、知りたくてつい首を突っ込んでいるうちに、気が付くと学んでいるのである。とりあえず今与えられているものを楽しもうという態度は間違ってはいないが、その結果として夢中になれる要素をみつけようという下心があるうちは、そのような出会いは決して訪れない。ましてやその波及効果として試験でもよい成績を収めようなどと考えているようではなおさらである。
 実際のところそのことを薄々感じ取ってはいた私は、とにかく試験や成績を気にしてしまう気持ちを忘れようと、受験とは一切関係のない専門書に挑戦してみたり、わざと試験には出ない細かな知識をあれこれ調べてみたりと、色々な悪あがきをしてはみた。
 ただそれと同時に、周囲の環境に目を向けると多くの疑問が目に付いた。それらについて自問自答するうちに、疑問は納得に変わり、現状の様々な矛盾に対して怒りも湧いてこざるを得なかった。
 
 大学で扱われているような種類の学問を学ぶ理由は、大きく分ければ二つあるだろうか。好奇心からか、特定の知識を実用目的で求めるか。
 現在の日本ではほかにも大卒資格などいわば肩書のためという理由も大きいだろうが、この場合は必ずしも特定の知識や技術など、学問の内容そのものが必要とされているわけではないので、ここでは脇におきたい。
 このうち試験による評価というものを一番の基準として、学生の評価だけでなく勉学の内容やスケジュールなどすべてが構築されている高校までのシステムによく合致するのは、除外した三つ目の動機である。
 最初の二つについてはそもそも個人によって求めている知識や技能の幅がありすぎるため、全国レベルで大まかには統一されたカリキュラムのもと、個々人の要求を満たすことは難しい。だからこそ大学にはその分だけ多様なコースがあり、専門学校もあり、ということなのだろうが、ここで忘れてはいけないことがある。
 子供たちが人生の初期に受ける教育は、大学などにおけるより自由度が高いものではなく、暗黙のうちに試験による評価を目標とした体系にもとづいている。
 こういう言い方は妙かもしれないが、私たちが高校までの学校教育で教えてもらえることが正式に保証されているのは、成績という他者からの評価をものさしに、そこでより高いランキングに食い込むと良いことがあるという、先に挙げた三つ目の価値観のみなのだ。
 もちろん学校生活の中で最初の二つに出会うこともあるわけだが、それは家族や教師との縁であったり、実生活での経験がもとになったりするのが基本で、少なくとも高校までの学校教育においてそのような体験をさせることを念頭に置いてシステムが構築されているわけではない。
 先に社会の内と外のことを述べたが、これはすべてが社会の内側、つまり人為的な規範と評価の世界に入り込んだわかりやすい例だろう。社会の内側だけに目が向いている体系は、それが武であれ芸事であれ、または学問であったとしても、世代を経れば必ず元の目標は見失われ手段が目的化する。
 教育や伝達のためのシステムを構築するということは、そのまま同時に手段が目的化できるようになる、ということでもある。個人に属するものでしかない技術や経験を他者に伝えられるように体系化したとき、まさにそのメリットによって形骸化も可能になったのだ。
まるで原始的な生物の体制が複雑化し、より多様な機能を発揮できるようになったのと同時に、死という機能をも獲得したのと同じように。