Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

10.逆向きの納得

 さて、勉強が比較的多くの人にとってテストという競技のためのツールでしかないというのなら、それはそれでいい。学ぶことそのものが好きな人は勝手に楽しみ、試験で得られる肩書が必要な人はそれを手に、自分にとって大切なことに役立てればよいのだ。
 ただ、ここで輪をかけて妙なことがある。それは世間一般に、勉学に打ち込んで優秀な成績を収めることは良いことだ、という倫理観にも似た価値観の存在が感じられることだ。
私はそこに、空手の型においてなぜだかわからないが手の高さはこう、足の角度はこう、腰の落とし方は……ということをなぞるのが練習だと思っていたのと、同じものを感じた。
しっかり勉強して良い成績を収めるのが良いことだ、という雰囲気はどこか、勢いを付けて動くのが良いという考えに似ている。どちらも何のためになぜそれが良いのか掘り下げた意見を持っている人は多くないが、それ以外の考えを知っているわけでもないので、なんとなく前提として受け入れているのである。
たとえばそれが受験競争のために有利であり、将来より良い社会的な評価を得ることに繋がるというのならばそうはっきりと述べればよいのだし、学問そのものに興味のある人間にはその目的に沿ってまた異なった勉強法が勧められてもよさそうなものだ。
私にとって一番きつかったのは、当時周囲でわかる限り、教師も生徒も誰一人としてそのような根本的な問題に目を向けているようには思えなかったということだ。いや、実は一人だけ似たようなことを考えているらしい同級生がいたのだが、彼と互いの不満を少し打ち明ける以上に踏み込んだ話をする勇気は、そのときの私にはなかった。
 
入試という大きなプレッシャーにさらされている受験生が、ともかく目先の点数しか目に入らなくなるのは理解できないでもない。そういう私自身、試験の成績を気にかける気持ちを忘れようと必死だったのは、そのことを脇において何かに取り組むことのできない自分が絶えず感じられ、もどかしかったからに他ならない。
浪人して通っていた予備校で、級友たちが講師の教え方についてあれこれと議論をしていたことがあった。
大まかな傾向としては、大学入試の出題範囲をできる限りシンプルにまとめ、理解して暗記すべき必要最低限の知識を明確に提示してくれる講師の評価が高いようだった。講義が興味深いとか、教科について深く考えさせられるような話題運びは、あまり求められていないらしかった。
試験に追い立てられている受験生なのだから、当然ではないかと思うだろうか。
しかしそれでは、そのような講義を良しとしていた学生たちが晴れて大学に合格した暁には、まったく理解不能の専門領域についてこれまた理解不可能な情熱で語りまくる教師の講義から、何かを学び取る準備が整っているのだろうか?いや、大学においてそのような環境が多くあるという想定自体が、もはや夢物語に過ぎないだろうか。
きつい言い方になるが、級友たちが高評価を与えていた授業での勉強方法とは端的に言って、未知の何かを理解するための主体的な学びとはちょうど逆の方向に進むものだ。
入試制度や試験による評価などの仕組みは、人々が効率よく学ぶための方便としてできたもののはずだ。にもかかわらず、その結果として学生たちを、未知のできごとに向かう学問本来の目的の反対方向に駆り立てるようなことになってしまってよいのだろうか。
ゲームのルール自体に疑いをもち、さらに確信まで抱いてしまったとなれば、もうそのゲームで勝つことはひどく難しくなる。なぜなら、そこで勝つために点数を稼ぐ努力そのものを、自身に対して正当化できなくなるからだ。
勉強の仕方について掘り下げることで大学入試にも納得ずくで対応できるようになるかと期待していたのだが、文字通り毎日時間さえあれば考え続ける中で、私が得たのは当初の目論見とは逆向きの納得だった。