Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

11.先送り

私の恩人の一人に、数学者の森田真生氏がいる。
 数学者の岡清が描いた世界に魅せられ、大学等の研究機関には所属せず独自の研究をされている。数学の研究成果を専門家だけでなく一般の人にも楽しんでもらえる場を作ろうと、数学の演奏会と題した講演を各地で開催している人物でもある。
 浪人していた2009年の10月、当時はまだ大学卒業前だった森田氏のこの会に藁にもすがる思いで参加し、たいへん温かく励ましていただいたことを覚えている。
 あの体験がなければ、精神的にぎりぎりだった私は本当にどうなっていたかわからない。
 大学入学後も、ちょうど森田氏自身が近所に越してきたこともあり、幾度かお会いしてあれこれと興味深い話を聞かせていただいたりもした。
 この森田氏からいただいたアドバイスは、言葉としてはひどく単純なものだ。彼は当時の私の、うまく言語化できていたとは到底言い難い訴えをすべて聞いて、ただ100パーセント同意してくれた。その上で「でも、少しくらい体に悪いことをしても人間は生きていけるのだから、おかしな勉強の仕方をしても、それですべて駄目になるわけではないよ」という、至極まっとうな助言をくれたのだった。
 この言葉は、このとき・この人以外の誰から貰ったとしても、意味をなさなかったろう。
 将来学問の研究を本職にしたい個人としてどんな風に勉強していけばよいのか、さらにはそれを自分の生き方とどのように関連させていけば納得のできる人生になるだろうか、という問題を一番に考えていた私にとって、先に述べた確信は無視のできないものだった。
 学問の進歩は社会にとって望ましいことだという建前が一応はありながら、勤勉な学生といえばそれらとまったく関係のない試験の得点を基準に向上を目指す人々のことであり、さらにその勉強は楽しくはないが頑張って取り組めばえらいのだという。
 このまったくわけのわからない価値観の集大成が、現在の大学入試というシステムとそれに一丸となって取り組む教師や学生の姿であるように、私には思えてならなかった。
 それは間違っていると私は思ったわけだが、結局は自分の利益のためにその仕組みに従い大学には入りたいというのであれば、その行動はただ与えられた枠組みを受け入れているのとどう違うのだろう。
 森田氏のアドバイスとは、このような私の悩みに対して「それくらいは、お目こぼしがあってもいいんじゃない?」というある意味では身もふたもないものだったが、その森田氏自身が人の生き方と学問の繋がりについてどれほど真剣に求めておられるかを私はこの日の講演で目の当たりにしていたので、他ならぬこの人が言ってくれるのならと、受け入れることができたのだった。
 
 その後の数ヶ月のことをあまり詳しく覚えているわけではない。ただ特にセンター試験後のふた月ほどは、ほとんど家からも出ずに毎日問題集に向かっていたような記憶がある。
 その頃、適度に休憩をして散歩ぐらいはしなさいと、両親から何度か言われた覚えがあるので、あまり健康的ではない生活をしていたのだろう。
 10月の会に参加したときから志望校に入学するまでの間、あれほど毎日考えずにはいられなかった学問をめぐる社会の仕組みのあり方について、これといって悩んだという記憶はない。だからもしかすると、本当にそれ以上は限界だったので、無意識のうちに視界から閉め出すような心理がはたらいたのかもしれない。
 ともかく私はそれまでの悩みや疑いをすべて棚上げにして、望んでいた大学への入学までこぎ着けた。
 ただやはり無理はあったようで、体調の面でも心理的にも、それなりの不調を被ってその後数年間、それらと付き合うことにはなった。
 短い時間とはいえ自分にとってそれほど重要な問題に目をつぶることができたのは、大学で学んでいる人々の中に入ってさえしまえば、私が考えている程度のことは多くの人がわかっていて、その矛盾を乗り越える道筋も示されているだろうという、ある意味とても楽観的な期待があったからだった。