Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

「お前にはユーモアのセンスがない」

 イギリス人にとって最大の罵倒は「お前にはユーモアのセンスがない」なのだという。以前2,3名のイングランド人から教えてもらった話だが、これが国民の共通認識なのか、それとも誰かの本にでも登場する有名な文句なのかは判然としない。

 どちらにしても、そこで言うユーモアなるものが、単なる洒落や皮肉といった修辞上の戯れ以上の意味をもっているらしいことは、私の短いイギリス生活からでもなんとなく察することができる。
 以前この国で乗客を積んだ船が難破だか転覆だかした際の、その救助活動のまっただ中で広まったジョークがあるらしい。「ああ、政治家が浮動票を探してる」

 日本語には訳しようがないのだが、ここでの「浮動票」を指す英語はfloating votersで、つまり直訳すれば「浮いている有権者」ということである。
 日本であれば、どうだろう。悲しむこと、祈ること。同じ国の住人が見舞われた不幸を何もできず見守りながら、その中に「笑い」の一滴を投じること。これらを同じ心模様の風景の中に、見出すことができるだろうか。

 悲しくても、怒っていても、真剣な議論のただ中にあっても、ユーモアはそこにいるのが人であることを忘れないでいさせてくれる、人間性の砦なのである。だから、たとえ冒頭の物言いが誰かの創意に富んだ表現に過ぎないとしても、この国で暮らす人々の共感を集めるのだろう。


 つい数日前、インターネットの風の便りで、京都大学の「折田先生像」の設置を知った。これは京大でおそらく20年以上に渡って続く風物詩で、過去に設置されていた折田彦市先生の銅像のパロディーとして、さまざまな人物やキャラクターをかたどった張りぼての像が毎年この時期にだけ設置されるのである。
 毎年なかなか感心するようなこだわりで作られているこの「折田先生像」の企画・製作者などは定かではないが、おそらく学生有志であろうか。例年大学入試二次試験の日取りに合わせて出現し、しばし人々の笑いを集めた後、気付くといなくなっている。


 今年は、この折田先生像も設置後早々にして、大学の職員によって撤去されたらしい。折からの「立て看板」騒動と同じ流れの延長線上にある対応のようだ。

 私には、今さらになってそんなことを始める「当局」とやらの意図が読めない。職員が……とは言うが、実際にそのような「学内秩序の強化」を主導しているのは、どのような立場の、誰なのだろうか。
 気の毒なことだが、こういったことがある度に、強く反発する学生たちからは総長が槍玉に上げられがちである。私は、さすがにそこは関係なかろうと考えている。漏れ聞こえてくる一連の当局とやらの対応は、京都大学という場に愛着のある者のやり方には、どうしても思えないからである。


 京都大学は「自由の学風」を謳っている。外からやってくる人にはこれは大きなブランドイメージであり、内部の人々にとってそれは自分もその一端を担っているという矜持でもあろう。少なくとも、私はそうだった。
 この自由とは学問・研究の自由を指すはずである。
 では、折田先生像のような遊びや洒落っ気はどうだろう。それはただの余剰であって、学問とは関係のないものだろうか。

 そうではあるまい。そうではない。もしそう考えているのだとしたら、大学生活の周辺にある「ゆとり」や「遊び心」を削り取っていって、本筋である学問・研究における精神の健全性だけは守れるつもりでいるというのなら、あまりにも浅はかなものの見方と言わざるを得ない。
 大学にいて学問に関わるのは人であり、その人が日々、活動することを支えているのは、そこにその場があるということだ。大学という大きな枠組みにおける価値の少なくない一端は、その場を保持することにこそ、あるのではないのか。
 

 まあ母校とはいえ、それほど縁のなかった身で、他人事と言えばその通りではある。ただ――

「お前にはユーモアのセンスがない」
 このイギリス人の「侮辱」が、まさしくその本来の意味で当てはまる姿ではないのかと、私は心配でならない。

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上記写真は「折田先生を讃える会」から引用させていただきました。