Ever, never, maybe
12月の初め、午後4時。ヨークの街はほぼ日が暮れきる時間だ。夏は11時まで明るいが、冬となるとまあこんなもの。ほんの数日前のことである。
先日、引っ越しをした。新しい住居は春頃から学生向けの下宿としてオープン予定の建物だ。
現在はまだ大部分が工事中で、完成している寝室には二段ベッドが二つ入り、ちょうどホステルのミックスドミトリーのような具合になっている。
私が到着した日、長期滞在のルームメイトとは別に旅行者の女性、Cさんがいた。週末だったため、その夜は当然のように皆で街に出かけ、パブとクラブを数軒はしごした。
深夜というよりは未明と呼ぶのがふさわしい時間になって、私たちは帰途に就いた。全員が良い機嫌である。
歩き始めてみるとCの足取りが怪しく、歩けはするのだがふらふらと覚束ない。「大丈夫だから~」と繰り返す彼女に適当に相槌を打ちつつ、家まで肩を支えて歩いた。
次の日はゆっくり休日を過ごし、夜は家にいた6人で一緒に食事をした。その後私がシャワーにこもっている間にCは出発したらしく、私は挨拶をしそこねた。
他のルームメイトからそのことを聞かされ、ああ残念だったなと思うと同時、そういえばそういうものだったと思い出した。
近頃は旅先でたまたま行き合っただけの相手とも、挨拶代わりにネット上のつながりを作ってしまうことが増えた。互いにフェイスブックのアカウントを交換さえすれば、とりあえず形の上では、継続的な関係を簡単に結んでしまえる。
Cに関していえば、私は彼女の姓を知らないし、こちらの姓も名乗らなかった。それに向こうが面倒な日本語の発音を覚えている保証もない。フルネームの綴りが分からなければ、ネット上で特定の友人を見つけ出すのはちょっと難しい。
そのことに思い至って、そういえばそうだった、と妙な感慨のようなものが胸に迫ってきたのだった。
夏に世話になった農家では、近所のI氏が週に幾度か、作業の手伝いに訪れていた。彼と作業をした最後の日、挨拶をし、握手をしてから、I氏が言った。
“See you. Ever, never, maybe.”
このときも私は、ああ本当だ、と何か不思議な心地がしたものだった。妙なたとえだが、買ったままずっと忘れていたお茶か何かを、「ほら、そこにそれ、あるでしょ」と指摘されてはじめて思い出しでもしたかのように。
I氏と会うことは、たぶん二度とないのかもしれない。ロンドン在住だと話していたCとどこかで出くわす可能性は、もう少しは高いだろうか。
そうかと思えば、旅先で一晩話し込んだだけの間柄でも、その後何かとやりとりが続いている友人もいる。
袖擦り合うも多生の縁、とやら。繋がるところに縁があるならば、離れてゆくのもまた縁だろうか。
奇しくも今夜、語学学校で3ヶ月を共に過ごした友人が帰国の途に就く。連絡先は知っている。故郷の文化も生活も、これまで過ごしてきた人生も、随分と違うのだろうと思う。
次に出会うのはいつになるのだろう。半年後か、それとも。
アラーの神様か如来か菩薩が、知っておられるだろうか。
この先がどこに続くのか、私は知らない。