Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

社会の距離って何だ?

 ソーシャルディスタンスという語が、日本でも耳に入るのではないだろうか。この英語の意味は、聞いただけでは掴みづらいことかと思う。取り立てて特別な含みはなく、最近盛んに言われている、人と人との距離を保ちましょう、というだけのことなのだが、うかつに直訳するとまったく意味のわからない日本語になる。たまにメディアなどで「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」などと書かれているのを目にすると、私は頭を抱えたくなる。あまりにも、日本語として成立していない。社会的って何だ。それは「距離」の前に付いてよい修飾語ではない。それなら、最初から横文字で済ませておくほうが幾分かマシである。
 さて、問題のタネはソーシャルsocialという語だ。ここでは日本語で言うところの「みんなで・みんなが」という意味合いに近い。「社会の」よりはもう少し、個々の人間の顔が見える。だから訳すなら素直に「相互隔離」でよいと思う。距離でも意味は通るが、そもそも英語でこれを言うときにはdistancingと動詞の進行形で使うのだから、能動的に距離を取る、ということだ。とにかく、考えなしの直訳だけは勘弁してもらいたい。語感がちぐはぐで気持ち悪い。

 しかしなぜそんな珍妙な直訳が出てくるのか。これは、ソーシャルの意味が直感的にわかりにくいからではないかと思う。これにそのまま当てはまるような概念が日本語では見当たらない。おそらく多くの人が思い浮かべるであろう「社会における」という訳は、場面によっては当てはまる。しかし、それではこの単語が指していることの全体像をカバーできない。
 たとえば、大学のサークルのことはこちらではソサエティという。人の集まりだとかコミュニティの意味合いがつよいのだろうと思う。そこで定期的に会合があれば、それはソーシャルと言ったりする。ほかにも、夜に友人と飲みに出かけるようなことを「ソーシャライズsocialise」するとも言う。社交と訳せば意味は通るだろうが、実際にはもっと気軽な物言いである。これにぴったり合う日本語を、私は思い付かない。
 こういった例でも多少は雰囲気が伝わるだろうか。日本語で社会と言えばどうしても多少堅苦しい響きになるが、英語ではもう少し幅をもった単語なのである。