Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

見えるものがすべてではない

 結構長く日本に帰っていた。久々の日本ではすしやラーメン、あんみつといった日本食文化の恵みをむさぼったが、数ヵ月越しにスコットランドへ戻れば、今度はこちらのケーキや揚げ物などにフラフラと引き寄せられる。斯様に人心は無常を移ろい、欲とは限りのないものである。

 

 先日、コーヒーが飲みたくなり大学のカフェに立ち寄った。こちらではたまにあるのだが、表示をよく見るとちょうどヴィーガンの店だった。ヴィーガンとは菜食主義のもう少し徹底したもので、乳製品などの動物性食品を摂らないスタイルを指す。

 何の気なしにカフェラテを頼めば牛乳はないという。それはそうだ。アーモンドミルクも悪くなさそうだが、慣れで豆乳ラテを注文した。と同時に、カウンターに並べてあるケーキが目に入った。街中でよく見かけるケーキのどれかなら、コーヒーとクルミのケーキだろうか。まあ何でも良い。ケーキだ。イギリスのケーキを寄越すがいい。

 

     ◆ 

 

 から揚げもどきを知っているだろうか。鶏肉のから揚げに似せて作る豆腐料理である。精進料理の店などに行くと口にする機会がある。

 このから揚げもどき、料理としては好きだと言っても差し支えない。確かにから揚げ「っぽい」味がして、しかし材料は豆腐であるのでさっぱりしている。から揚げもどきはおいしい豆腐料理である。であるからして、鶏のから揚げではない。

 

 何の話か察しがついただろうか。

 ケーキを口に含むと、期待したものに似た、けれどどこか混乱を誘う不可解な味わいが舌に広がった。味は悪くない。だが思っていたケーキではない。ひとしきり疑問符を浮かべてから、私はこの未知のお菓子がヴィーガン仕様であることに思い至った。

 牛乳、卵、バター、生クリーム。すべて動物性タンパクである。このケーキには、使われていない。

 から揚げもどきは好きだが、それは目の前の茶色の中身が豆腐であると理解しているときに限られる。人は舌でのみ味わうのではない。目で味わい、想像で味わう。視覚を欺かれると、我々の感覚器官は大変にもろい。

 

 私は甘味における乳製品の重要性にひとり思いを馳せつつ、不思議な味のする植物性のお菓子を豆と豆の飲料で流し込んだ。鶏さん牛さんに幸いあれ。

移転しました

ヤフーブログのサービス終了に伴いこちらのはてなブログに移転しました。

まあ移転作業をやったのは少し前なのですが、一応区切りが分かるように書いておきます。過去記事の内容は変わっていません。カテゴリーを若干弄った程度です。

もともと更新頻度は低いのであまり代わり映えしないかとは思いますが、今後もぼちぼち続けてはいきます。

「お前にはユーモアのセンスがない」

 イギリス人にとって最大の罵倒は「お前にはユーモアのセンスがない」なのだという。以前2,3名のイングランド人から教えてもらった話だが、これが国民の共通認識なのか、それとも誰かの本にでも登場する有名な文句なのかは判然としない。

 どちらにしても、そこで言うユーモアなるものが、単なる洒落や皮肉といった修辞上の戯れ以上の意味をもっているらしいことは、私の短いイギリス生活からでもなんとなく察することができる。
 以前この国で乗客を積んだ船が難破だか転覆だかした際の、その救助活動のまっただ中で広まったジョークがあるらしい。「ああ、政治家が浮動票を探してる」

 日本語には訳しようがないのだが、ここでの「浮動票」を指す英語はfloating votersで、つまり直訳すれば「浮いている有権者」ということである。
 日本であれば、どうだろう。悲しむこと、祈ること。同じ国の住人が見舞われた不幸を何もできず見守りながら、その中に「笑い」の一滴を投じること。これらを同じ心模様の風景の中に、見出すことができるだろうか。

 悲しくても、怒っていても、真剣な議論のただ中にあっても、ユーモアはそこにいるのが人であることを忘れないでいさせてくれる、人間性の砦なのである。だから、たとえ冒頭の物言いが誰かの創意に富んだ表現に過ぎないとしても、この国で暮らす人々の共感を集めるのだろう。


 つい数日前、インターネットの風の便りで、京都大学の「折田先生像」の設置を知った。これは京大でおそらく20年以上に渡って続く風物詩で、過去に設置されていた折田彦市先生の銅像のパロディーとして、さまざまな人物やキャラクターをかたどった張りぼての像が毎年この時期にだけ設置されるのである。
 毎年なかなか感心するようなこだわりで作られているこの「折田先生像」の企画・製作者などは定かではないが、おそらく学生有志であろうか。例年大学入試二次試験の日取りに合わせて出現し、しばし人々の笑いを集めた後、気付くといなくなっている。


 今年は、この折田先生像も設置後早々にして、大学の職員によって撤去されたらしい。折からの「立て看板」騒動と同じ流れの延長線上にある対応のようだ。

 私には、今さらになってそんなことを始める「当局」とやらの意図が読めない。職員が……とは言うが、実際にそのような「学内秩序の強化」を主導しているのは、どのような立場の、誰なのだろうか。
 気の毒なことだが、こういったことがある度に、強く反発する学生たちからは総長が槍玉に上げられがちである。私は、さすがにそこは関係なかろうと考えている。漏れ聞こえてくる一連の当局とやらの対応は、京都大学という場に愛着のある者のやり方には、どうしても思えないからである。


 京都大学は「自由の学風」を謳っている。外からやってくる人にはこれは大きなブランドイメージであり、内部の人々にとってそれは自分もその一端を担っているという矜持でもあろう。少なくとも、私はそうだった。
 この自由とは学問・研究の自由を指すはずである。
 では、折田先生像のような遊びや洒落っ気はどうだろう。それはただの余剰であって、学問とは関係のないものだろうか。

 そうではあるまい。そうではない。もしそう考えているのだとしたら、大学生活の周辺にある「ゆとり」や「遊び心」を削り取っていって、本筋である学問・研究における精神の健全性だけは守れるつもりでいるというのなら、あまりにも浅はかなものの見方と言わざるを得ない。
 大学にいて学問に関わるのは人であり、その人が日々、活動することを支えているのは、そこにその場があるということだ。大学という大きな枠組みにおける価値の少なくない一端は、その場を保持することにこそ、あるのではないのか。
 

 まあ母校とはいえ、それほど縁のなかった身で、他人事と言えばその通りではある。ただ――

「お前にはユーモアのセンスがない」
 このイギリス人の「侮辱」が、まさしくその本来の意味で当てはまる姿ではないのかと、私は心配でならない。

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上記写真は「折田先生を讃える会」から引用させていただきました。

身の規矩と…

 ヨーロッパの剣術教本によく登場する図がある。

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 これは1400年代イタリア北部のフェンシング・マスターによって書かれた本に載っているものだが、見てのとおり人間の体に対する基本的な太刀筋を図示したものだ。
 はじめてこちらの練習用の剣を手にしたときは戸惑った。不慣れな道具だから当然だが、それでもアジアのものならもう少し手に馴染むだろうと思う。まず剣を持つ手の形が違うので、なんとなく振ってみてもしっくりこないのである。

 日本刀の場合、両手で体の真ん中に構えてみると、一番楽な動きは上下だろう。難しいことを考えなくても、両手をそのまま上下させてやれば、相手の頭頂部から真下に向かって切り下ろす太刀筋になる。
 この軌道はまず自分の体の中心線をなぞることが第一で、それを相手に合わせていくといった感覚になる。
 慣れない両刃の剣を、慣れない片手で持ってみても、どの線をなぞって振ればスムーズな動きにになるのか、いまひとつピンとこない。図にある向かって右、つまり相手の左肩から袈裟懸けに切る軌道に納得がいくまでかなり時間がかかった。

 ところが、最近気が付いたことがある。
 当然といえば当然だが、この図にあるのは剣を向ける相手の体であり、そこに目標としての太刀筋が描きこまれている。別段、剣を手にした自分の体に対してどの方向、といった話ではないようだ。
 自分の構え如何に関わらず、ただ相手の体に対して切り込めばそれでよいということだろうか?

 どうやらそうなのかもしれない、と思っている。そしてその違いがそれなりに重要なことのような気がしている。

緑色と滋味

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 Baby sproutという野菜がある。日本語では芽キャベツというのだろうか。ミニトマトくらいのサイズの、小さなキャベツである。味もキャベツに近いが独特の香りがある。
 イギリスではごく一般的な野菜で、とくにクリスマスには定番の食材である。イギリス人たちの評価を聞く限り、どうも「子供が嫌いな野菜」の定番であるらしく、あまり人気者ではないようだ。

 だが、ちょっと待ってほしい。
 この芽キャベツを耐熱皿にぽんぽんと放り込む。焼き時間短縮のために、まずはレンジで数分。全体に塩を振ってまぜる。少しオリーブオイルも足しておく。そこにベーコンなどの「油気(と塩気)の多い動物性のもの」追加して、オーブンへ。
 焦ってはいけない。じっくりと火を通して、油が全体に染みわたり、野菜の甘みが引き出されるのを待つ。
 今日はちょうど缶入りのアンチョビがあまっていたので、それを使った。皿の端に触れている部分に軽く焦げ色がつくほどになったら完成である。
 最後に胡椒をまぶしてもよい。

 率直に言って、これほどビールに合う食べ物もない。
 動物性の脂と塩味。噛めばキャベツの甘み、苦味、濃い味の野菜特有の少しクセのある香り。もう一度言おう。こんなにビールに合う食べ物はない。いくらでも食べられる。

 機会があればぜひお試しを。

空白の大きさは

 言葉には表面と裏面がある。表面はその意味によって示されること。共有されるもの。公(おおやけ)としての言葉。言葉は重ねることによってそれを指し示す。積み重なれば隙間が生まれ、そこに「ある」ものによって「ない」ことがあぶり出される。これが言葉の裏側だ。
 言葉の表側を使うのは、私からあなたへの公式の伝達だ。その隣にはいつももう一つのメッセージがあり、それは隠されているわけではない。
 語られたこと、理解したことに人はかならずしも動かされない。それらは明らかであるがゆえに完結し、静止している。人は読み取ったこと、明らかでないこと、見ようとすることによって駆り立てられる。運動とはいまだ完成していない状態のことだからだ。

 もしも文学に伝えるべき意図や目的があるならば、物語ではなくその思想を述べれば足りたはずだった。人は語られることの存在によってその後ろに落ちる陰の気配を聞かざるを得ないからこそ、この体のまま生きていられるのではないか。

 年毎に咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかは

備忘録

 何日か前(いや、2週間ぐらい前だったかもしれないが)、大好きな小説家の坂口氏がツイッターでしていた発言が目に留まった。細かいところは忘れたが、おおよそ以下のようなもの。
「日本の自殺者は今のペースで減っていけば、10年後には0になる計算だ。おれは不可能だとは思っていない。…(中略)もし自殺者がいなくなれば、今の政権というか社会の体制は崩壊すると思うので、おれはそっちから攻めます」
 すごいと思った。このセンスの冴えはさすがだ。(坂口氏は自身の携帯番号をネット上で公開し、死にたい人からの電話を受けている)
 
 自分ならどういう方法があるか、ふと思いを巡らせた。答えは案外すぐに出た。
「ふつうの老若男女が、自分と同じくらいの体格の人間を担いで、気軽に歩き回れるぐらい」の体力、身ごなしが当たり前になれば、随分と変わるだろう。
 別に難しいことではない。ただ今の日本では、誰でも出来ることでもないかと思う。ただそれは、現代の私たちが人類史で稀に見るほどに、身体の使い方が下手になってしまっているからに過ぎない。
 
 まあ、今のところは「社会」より自分の満足が優先なのだが……。周囲の人々に対して何が出来るか考える段になったら、これを基準にしようかなというつもりでいる。