Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

街を歩く

 夜10時前。ニューカッスルの街をゆっくりと横切って、足の向くまま大学の構内へ。区画の角にあるQB House(喫茶店)でお茶を飲もうと思って出てきたのだけれど、遠回りするのもいい。雲が夕焼けの空を隠して薄青いような、少し夢の中みたいな色に染まっている。

 一昨日、少し骨休めのために戻ってきた。そう、どうしても「戻ってきた」という言い方がしっくりくる。もう3年も経ったか、という感慨と同時に、まだ3年か、とまるでひと昔前を振り返る気分で、その現実世界での年月の遅さに驚くような自分もいる。去年両親とともに旅行に来たときには、こう胸の奥に迫るような懐かしさはなかった。一人だからだろうか。学生ではなくなったから?

 肚のあたりでふと「気がする」感覚は、鳩尾の奥まで昇ってくると「感じ」になり、胸の中に広がると「気持ち」になる。そのまま、鎖骨の交わるあたりで留めておいて、首から上へは登らせない。これは武術の稽古で学んだことだが、そうしておけばさざ波立つ「感情」に揺らされずに済む。今はそういうものに惑わされたくない。「気が沈んでいる」とちゃんと自分自身でいることができる。これが心地良い。
 留学していた一年間は私にとって特別だ。何故かは結局、よくわからない。何かが大きく変わったには違いないのだが、何がどう変わったかはさっぱりだ。それなりに説明を付けてみることはできるけれど、別にそれはいい。肚の方に鎮めておいた方が良い。
 ただひとつ思うのは、その大部分は人だったのかな、ということ。あの時あの場に、その人たちが揃っていた。ここで確立を論じるような阿呆なことはすまい。ただ「その時」以外のいつであっても、「あの一年」はなかった、というだけの話。だからここに戻ってきてもそのニューカッスルがあるわけではない。
 経験は宝箱にしまっておくと、次に開けたときには影も形もなくなっている。けれどしまっておくことはできるし、それは大切なことである。ときどきふと気になって箱を開けた時に「そこにない」ことによって私たちにその存在を知らせてくれる。

 「感じたことを伝える」とか「表現する」というのはきっと嘘だな、とふいに気が付いた。体験は後には残らない。残ったと思っているのはその余韻、影である。だから感じたらそれは胸の内に溶かしておいて、そこで生まれた波紋とか風とかが次の言葉になり、行為になる。「あのとき感じたこと」を精密に型取りして出力しようとしたら、その鋳型の不出来に落胆するしかなくなる。だってそれはそうだ。具体的にするということは、不完全にするということなのだから。


 さて、お茶がなくなった。このブレンド・ティーの名前が「A Stolen Moment」。これまたちょっと夢の中のような香りのする紅茶だった。それとやっぱりここのブラウニーが絶品。時刻もそろそろ深夜に近い。
 明日はまた北へ出発。宿に帰って寝ることにする。

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