Asahi's notebook

大麦小豆二升五銭

僕は勉強で苦労しなかった

 今頃になって、かつて周囲にもいたはずの「勉強ができないひと」のことに、思いを致している。なぜかといえば、外国語で、異文化の世界観を前提にした哲学など学んでいるものだから、母国語でかつ生まれ育った文化の思考法としてそれを学んでいる人たちとは、断絶を感じざるを得ないからである。


 学校の勉強で特に苦労したことはなかった。だからといって試験で良い点が取れることが、特段に意味のあることだと思ってもいなかったが、労せずしてゲームをクリアできるのだから、そのことに特に疑問を抱いたこともなかった。念のため付け加えておくならば、仲の良い友人には点数の取れるヤツもいれば取れないヤツもいた。
 しかし今になって考えれば、学校が日常の大半を占める時期に、学業というファクターが足枷にならなかったことは、起こりえた色々な苦労を除いてくれていたのだろう。学業の成績の良さは理不尽にも、若い学生の人生で考えうる多くの面倒ごとを打ち消してくれる。
 たまたま勉強というゲームが不得手であり、かつそのゲームの価値が高く見積もられる環境に置かれてしまった若者は、早くから自力で闘わざるを得なくなる。何に抗っているのかは、おおくの場合、本人にも周囲の人にも明らかではないだろう。
 はじめから当たり前のようにそこにあった仕組みはあたかも自然の摂理のように見えてしまい、それがあくまで人工的なルールでしかないことに、気が付く機会はそう多くない。

 

 特に参加を表明したつもりもないそのゲームのルール内において、私は自覚なき強者であった。理由もなく強者であったということは、理由もなく弱者たり得たということである。根拠もなく「運の良い側」でありながらも、そうでない立場の存在に気付くことのなかった自身を省みるにつけ、底の見えない不安がみぞおちの奥で疼く。
 たまたま、そこで苦労をせずに済んだ私は、別に悪いことはしていない。そこの仕組みが馴染まなくて割を食うことになったひとにも、何の咎があったわけでもない。私たちはある枠組みの中で生きている。その枠組みの中で悪とみなされる行いをしなければ、罪のないひとでいることができる。そうして日々を過ごすことで、私たちはすでに存在する仕組みの維持に貢献している。
 そこで暮らしているだけで犠牲にしているものごとに気付かずにいることは、ルールの内側において善良であることの、妨げにはならない。
 罪のない人々の罪のなさは、そうやっていつも守られている。

文体雑感

 ここしばらくのところ、言葉のリズムが気にかかっている。いま普段使いにもちいている日本語の書き方は、どうももともとの日本語のリズムではないような感じがして、そのくせ、ではどういう流れが心地よいのかと言われれば、これと言えるほどの感覚も持ち合わせていない。
 ではひとつ古語でも声に出して読んでみればと思ったところが手元にないので、しばらく放置していた。が、今どき探す気になればネットにいくらでもあることは分かりきっており、先日、ちょっとひとつ見てみるかと青空文庫を訪れた。古典など高校で習ったきりなので碌に読めもしないが、この際意味は別に分からなくともよい。ただ集中力はないので、気が向いたときだけページを開いて目移りし、今度は古い小説などを拾い読みした。
 青空文庫では作品ごとに新字旧字体や仮名遣いの表記があるが、戦前のものだと同じ作家の作品でも入り交じってまちまちである。さらに新字新仮名といっても言葉遣いは今のものと随分と違う。現代語でもなく、古語でもない。言文一致以前の文章観が残っていたであろうし、書き言葉としての言語感覚は私たちとかなり違ったろう。読んでいてひどく新鮮で、何とは知らず心地よい。流れのよさは古語にもあるが、そちらには少し隔たりがあって、こちらの感覚が追いつかない。日常的に使っている言葉と違うから、まあそんなものだろう。

ここにもあそこにも

 どうということもない会話の断片が、妙に心に残っていることがある。何を記憶に残しておくのか選べたのなら、もっとほかに覚えておくべき会話もあったのかもしれないけれど、別段意味もない断片の寄せ集めである。


 以前ヨークのホテルで働いていたときの同僚が、戯れに自分の専門分野の優位性を争っていた。片方は歴史学か何かについて語っていて、もう一人は大学院で学んでいる地理学の重要性を主張している。彼は多国籍入り混じった同僚たちから各国の挨拶を聞き覚えていて、私も日本語の挨拶をひとつかふたつと、お決まりのカジュアルな罵り言葉をいくつか教えあったように記憶している。
 ごく気心の知れたふたりの論争が続き、地理学専攻のギタリストはやれやれ、といった様子で続けた。
「地理学はこの世のすべてだよ」まだものを知らないこどもに、とっておきの知恵を授けるがごとくである。


 のんびりと食器を磨きながら耳を傾けていた私は、この男を一端の地理屋であると認めた。無論私は、地理のチの字も知りはしない。わかるのはせいぜいがスーパーで売られているワインの、すっきりとした飲み口くらいである。
 この街は、丘は、大地は。その窓を通して、どのように見えるのだろう。

英国の年の瀬

 12月24日。近所のショッピングセンターは家族連れで賑わい、まさに大晦日の様相だった。大きなスーパーが二軒と家電、雑貨、本屋、コーヒーの店などなどが並んでいて普段から人は多いけれど、この日はあれこれとおしゃべりをしながら大きな荷物を抱えた家族連れが特に多い。
 イギリスのクリスマスはちょうどお正月のようなもので、ほとんどの人が地元に戻り、家族と一緒に過ごす。25日と続く26日のボクシング・デー(人々が和気藹々と殴りあう日ではなく、もともとはクリスマスも働いてくれた使用人に、贈りものが入ったボックスを渡す日であるそうだ)には街はすっかり静まり返り、年末独特の雰囲気に包まれる。
 このクリスマスの様子はけっこう好きだ。日本のものとどこが違うと言われれば難しいのだが、もっと地に足の着いた温かさがあるように感じる。少し早い年の瀬の気分を味わっている。

先週の稽古

 フェンシングの先生とかなり時間を掛けて自由攻防稽古をする機会があった。そのとき感じたことがらが多少言葉になりそうなので、書いておこうと思う。

 

 まず武器に慣れているかどうかはとても重要であるということ。判りきったことを言っているようだが、実際にはこのレベルに差があると他のすべての要素がほぼ無意味になるのではないかと思うほどである。もう少し詳しく言えば武器の持ち方であり、武器との関係性であり、武器を含めた身体の状態だと言ってもよい。これだけでも決定的な差が生まれる。

 私にとってここで使っている剣(実際には操作性の近い木の棒)はそれなりに練習した道具ではあるが、まだ使いこなせない動作は多い。そういった瞬間には、剣は自分の動作における制約となってしまう。言ってしまえば武器が邪魔で動きづらいという段階だ。先生の方は、私から見れば自由自在である。対峙した際の率直な感想は「あちらだけボクシングをやっているみたいでずるい」だった。

 自由攻防とは言うものの、勝負として成り立っていたかは正直かなり危ういレベルだった。先生からすれば私を好き放題に切り刻めるタイミングは相当あっただろうと思う。

 他にも細々した要素はあるのだが、長くなったのでこのあたりで。

云年振りの型

 最近はときどき抜刀の稽古をしている。ずっと前に教わったきり、何を目標に稽古したものかわからずに放ったままになっていた正座の型だ。

 素手の組み技であれば、相手に影響を与えようという意思の表れが動きの妨げとなることは実感しやすい。また、先日はバックソードの地稽古でも、打とうとかコントロールしよういう目標を思い描くことがどれほど自分の動きを崩し、心身の力みを生み出しているかを改めて思い知った。

 型の手順に沿って刀を抜いていくと、この部分がとても見えやすい。体から注目がはずれ刀を自分の意図でコントロールしようとすると、あからさまに抜き付けの質が落ちる。また相手が自分の武器である分、生身の人間相手の技よりは「好き勝手に扱える対象」という錯覚を起こしやすくもあり、難しい。

 「剣と柔の間にいまひとつの武術あるべし…」などといった古人の言葉があったかと思うが、なるほどという思いだ。

雲と風の日々

 携帯電話にキャリアからのメッセージが届いた。前回トップアップしてからもう一月経つらしい。先週同じお知らせ(来週で期限がきますよ)を受けたときにはまだ数日あるなと思っていたのだが、その数日はもうどこかへ行ってしまったらしい。もう少しゆっくりしていけばいいのに。

 携帯のお知らせがきたということは、スコットランドに戻ってからもうそれだけ経つということだ。この調子で二月、三月と過ぎてゆき、あれあれと言っている間に一年である。もちろん知っている。

 生活拠点をあちこち移したことのある人には同意してもらえることかと思うが、私はもうずっとここで暮らしていたかのような気分になっている。通りは私の風景であり、この街の季節こそがわが季節の移り変わりになる。夏の間、実家の周辺でうろうろしていたときには、もちろん私は大阪や京都の土地の一部だった。ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎるともうずっとそこにいても良いような気分になった。

 10時間以上のフライトはなかなかの長旅である。それも手伝っているのか、使っている言葉が違うからなのか。まるでスイッチを切り替えるように、海のあちらとこちらにいるときでは生活リズムや心地よく感じる行動の流れそのものが組み変わっているように感じる。「私の心」は環境の中に、あちらにもそちらにも散らばっていると聞いたことを思い出す。